【あるTwitterの炎上への考察】真のカンボジア支援について考える

2021年4月1日

最近起こったあるTwitterの炎上

少し前に、カンボジアの子供たちへ支援を行う青年がつぶやいた一つの書き込みが多くのコメントを集めていました。

この方は、直接カンボジアのスラム街を訪問し、文房具等を手渡すという立派な活動をしているようです。

炎上のきっかけになった書き込み内容は、

・貰ったにも関わらず感謝の気持ちがない
・僕の目を見てありがとうが言えない

というものです。

彼は、お金儲けのためではなく、本当の支援を自らの手で実現したいという情熱が活動の支えだと言っています。

私は、このつぶやきに対して批判する立場ではありませんが、自らの支援活動について考えさせられたことがあったので、そのことについて触れてみようと思います。

支援は誰のためにあるのかと言うこと

これは、間違いなく、支援はカンボジアのために行うものであって、自分のために行うものではありません。

この方が言うように、確かに支援した時に感謝が感じられないことがあります。

私もこれまでに50校以上の学校を支援しておりますので、それぞれの学校の対応が違うこともよくわかりますし、支援物資や図書の受け取り方も様々です。

だから、彼の気持ちは理解できます。

私は、支援があまり喜ばれなくて残念に思う感情が湧き上がるとき、(これは心理学ではメタ認知と言う手法ですが)、自分のその感情を俯瞰して見るようにしています。

簡単に言えば、

「ああ、自分は残念に感じているんだなあ。」

と感じること。

しばらくそれを感じていると、私の思考パターンがある言葉を引っ張ってきます。

それは、

支援をさせていただく

ということなんです。

これは、私のカンボジア支援活動の原点でもあります。

だから、させていただいたことに心がフォーカスされ、最後には満足感が湧き上がってきます。

支援後に相手の態度に対して残念に思う心は、明らかに何らかの見返りを求めている心があるからです。

この青年の場合の見返りは、子どもたちの感謝や喜び。

その支援の根底には、

してあげている

という思い違いがあります。

「ありがたく思う、思わない」「喜ぶ、喜ばない」は、あくまで受け取る側が感じること。

それを無理やり要求するのは、思い上がりというものです。

ましてや、「次回からは目を見て受け取らなければものをあげない。」などと考え、そんなことを支援の現場で実行しようものなら、反対にどれだけ子供の心を傷つけるのかを考えなければなりません。

怒りの感情は、二次感情。

きっと、悲しみの感情が、このツイートの文章を生み出したのだと思います。

もしも、心から感謝されたい、喜んでもらいたいと思うなら、答えは超簡単です。

感謝されるようなマインドを持つことです。

そして、心から喜ばれるような支援活動を展開することです。

ボランティアに隠されている心の公式

ボランティア活動には、自発性、無償性、社会性、創造性などの要素があります。

この青年は、利益を断固求めないと言っておりますので、その無償性は意識されているように思います。支援活動も、2020年にこちらに来て始めたばかりとのこと。経験を積みながら、心の利益を求めないところにまで支援に対するマインドを高めていただければと願う次第です。

よく、カンボジアに自分探しの旅に来て、いろいろ体験してみたいという方がいます。

これも、自己の体験という利益を優先して求めている以上、明らかにボランティアによる支援活動とは異なるものです。

ボランティア支援の喜びは、

求める者は得られなくて、求めない者だけが得られる

という黄金則があります。

たどった足取りが良い経験になっていたということはあるでしょう。それは、見返りを求めないで行った人が後付けで受け取るご褒美のようなものです。

ですから、まず自分のためにと考えた段階で、支援活動はしぼんでいくことを承知しておいてください。

カンボジアの子どもたちを心から愛し、慈しみをもって接する

2018年に初めてカンボジアに支援活動で来られた女性。

この方の周りには、自然に子どもたちが集まってきました。

彼らは、モノが欲しくて集まってきたのではありません。

では、なぜ子供たちが寄ってきたのか。

それは、

「愛情」と言う波動が子どもたちの心にシンクロ(同期)するから

なんです。

実際に、この方は、カンボジア中の孤児たちの母親になりたいとまでおっしゃっていましたから。

このマインドがあれば、支援活動は必ず良いものになります。

チアフルスマイルでは、これまでにカンボジアの子供たちの健やかな成長を心から願ってくださる多くの素敵な方々にお越しいただきました。

日本からたくさんの教材を箱に詰めてお持ちいただいた方。
何百人もの全校生徒に一枚一枚手作りのしおりを作って手渡ししてくださった方。
日本の文化を紹介したいと手作りの福笑いのセットをたくさん作ってきてくださった方。
環境を守ることの大切さを伝えたいと、プレゼンテーションを用意してくださった方。

これらの方々の子どもたちへの接し方にすべてが現れているんです。

思いやり、慈愛、博愛、受容、寛容、笑顔

手作りの350枚のしおりと共に図書を支援された下の女性の学校訪問。

ご支援者の笑顔、緊張しながら受け取る子どもたち、それを柔らかな表情で見守る校長先生

三者が一体化しているのがお分かりいただけますか。

この教室は、この時間、温かな愛情で包まれていました。

個人の方の支援活動を支える立場に回り、それを一部始終見届けてきたからこそわかるのです。

こちらの方は、一切の見返りを求めていませんでした。

もちろん、「~してあげている」という感情は一切ありません。

たとえ挨拶ができなくても、ご支援者の笑顔が子どもたちを包み込んでしまいます。

一緒に写真を撮りたい子どもたちが大勢集まってきました。

校長先生からは、思わぬプレゼントが渡されました。

支援活動では、愛のシンクロが起こります。

言葉にすれば、ものを通して愛情が伝わるということだと思います。

実際の支援活動の記事はこちら

私の失敗談

一度、こんなことがありました。

コンポントム州とクラチエ州の境の学校に支援に行った時のことでした。かなり田舎の学校なので、前日にプノンペンからバスで3時間走り、コンポントムの街に一泊しました。

翌朝5時半、そこからバイクで120kmほどの悪路を道に迷いながら、2台のバイクに分乗して、山奥に向かっていきました。

予定では9時半に着く計算でいたのですが、学校へ到着したのは11時。

先生方は、午前の授業が11時に終えるところを30分伸ばして、子どもたちを残して生徒たちとの交流活動の場を設定してくださいました。

でも、心なしか先生方の表情がこわばっているようでした。

そんなことから、私たちが予定に遅れて到着したばかりに、相手の方々の生活リズムを崩してしまったことに申し訳なさを感じました。

子どもたちは、遠くから来た私たちを笑顔で迎えてくれましたが、カンボジアの学校は朝早いので、11時から14時の3時間は、昼休憩の時間帯になります。

いつもは先生方も大いに喜んでくださる支援活動が、ややしぼんでしまった形になったことを思い出します。

個人の約束とは違い、100名以上の子供たちや先生方に関わる活動です。

カンボジアの道を走れば、様々なハプニングが起こります。

タイヤのパンク、故障、事故、強盗、野生動物との遭遇・・・。

この時には、実際に、ガス欠、リムの故障、転倒事故(牛との衝突)などが、次々と起こりました。

そういったことも含めて、事前訪問をしてルートを確かめていますが、想定外のことが常に起こります。

幸いにも、無事に図書を手渡しし、子どもたちにも支援の形を残すことができました。

帰り道、ずっと、支援をさせていただいたことに満足感を膨らませたことを思い出します。

それと同時に、支援活動全般を振り返り、

・本当に必要とされるものを届けられたか。

・支援時期は妥当であったか。

・自分の支援マインドレベルはどうであったか。

などを反省するのです。

あるべき支援とは

よく、真の支援とは、

エサを与えるのではなく釣り方を教える

と言われます。

これは、途上国に対して、ものを与えても、本質的には何も変わらない。だから、自らの力で自立できるような方法を教えることが大切だという意味を指しています。

カンボジアの実情で言えば、

文房具を与えるだけではいつまでたっても勉強ができるようにならない。

だから、教育の質を向上させることが必要だということです。

ある意味、正論なんですが、私は、ものを与える支援があってもいいと思っています。

なぜなら、すべての支援団体がこの考えで臨んだら、物資が圧倒的に不足しているカンボジアの田舎の子どもたちの学びの質さえも向上しようがないからです。

私たちは、図書や教材を支援しています。

でも、そこにある工夫を加えます。

図書支援の場合
①すべての図書に支援を証明するタグシールを貼り、スタンプを押します。
②学校長と図書室の運営について話し合い、活用方法を提案します。
③子どもたちには、その場で読書活動をしてもらいます。
④事後訪問をして、図書や教材の活用状況を届けます。
 

こうすることで、モノを渡すだけの支援に終わらず、有効に活用するところにまで波及させることができるからです。

教材を支援する場合
①先生方に活用方法を指導します。
②子どもたちと教材作成をします。
③それを使って、実際に授業をやって見せます。
単位換算表(松田が製作)

台形の求積説明板(松田オリジナルの考案)

教師用三角定規

教材支援の場合には、私が教員養成大学で指導していた経験が大いに生かされています。カンボジアの先生方がどのような指導単元を苦手としているのかが良くわかるからです。当然、教師がきちんと指導できなければ、子どもたちにも身に付きようはありませんから。

文房具を渡す場合においても、

・鉛筆の正しい削り方を教える。(名前を書く。)
・ノートに名前を書かせる。アルファベットの書き方を指導する。

などの活動を組み合わせることで、有効活用につながることが予想されます。

モノだけ与えて、それが市場に並んでいたというのもよくある話。

活用するものだという意識をもたせることが大事だと思います。

ボランティアとNGOの違い

ボランティアーは、概して支援活動に対して非常に純粋な心をお持ちです。

大抵の方が見返りを求めず、活動に参加されます。

ましてや、日本から直接こちらにお越し頂いて、遠い学校にまで足を運んでくださるということは、支援する図書や教材以外にも、相当な金銭的負担をご本人がすることになります。

往復航空券、滞在費用、食費、移動費、通訳費用など、すべて負担して支援を行っていただくことに、私はただただ感謝の気持ちしかありません。

でも、私は、ボランティアとNGO活動は異なるものであると考えます。

かつて、「支援ビジネス」なるものが話題になりました。

孤児院を運営している団体が、親のいる子どもを集め、みすぼらしい服装をさせて、子どもたちに伝統舞踊を踊らせて、支援金をだまし取っていたというやり口で、その団体の幹部は豪華な家に住み、高級車を乗り回していたなんていう話です。

私自身も、支援団体に所属していましたので、実感としてわかるのですが、役員の高価なホテルへの滞在費や無駄と思われる会食費などへの支援金の使われ方に疑問を感じることが度々ありました。人の集まる大きな組織ほど、これが顕著になります。

上の孤児院の例は、虚偽の活動をしている点で完全にアウトです。ましてや、自分がそのお金で私腹を肥やしているのであれば、世間のパッシングを受けて然るべきと言えます。

では、すべてのNGO活動も無償のボランティアで行うべきかといったらそれも違うのです。

なぜならNGO活動では、活動そのものを存続させるための費用を生み出していかなければならないからです。

つまり、個人単位では一度きりで済むことでも、活動を継続していくためにはどうしても財源が必要なんです。

支援活動は、無償で行っているといつかはお金も尽きて、辞めざるを得なくなります。

ここが、ボランティアの精神だけでは成り立たないところです。

チアフルスマイルの経営状況を開示しますと、

  1. 代表は支援事業以外にコンサルティング業での収入源があること。そして、その収益の多くを支援活動の経費に回していること。
  2. ホームページに広告を掲載し、クリックによる収入を得ていること。
  3. 刺繍作品のフェアトレードを行っていること
  4. ご支援者様から活動のための支援を頂いていること。

このようにして、これまで何とか活動を継続させていただくことができました。

なお、お金に関しては、個人とNGOの線引きをきっちりつけることが大事だと思っていますので、支援のお金は、あくまでも支援に関わることだけに遣わせていただいてきたことを改めてお伝えします。

今後、『活動拠点に事務所を構える、必要なスタッフを雇用する』などが出てくると、そのための費用を作り出していく一層の努力が必要になります。

活動が拡大されるほど、財源の必要度も高まるのです。

ここにも個人のボランティアとNGOの違いがあることがおわかりいただけると思います。

最後に、支援活動はボランティア精神で行っていますが、NGO運営はそうではないということを明確に申し上げたいと思います。そのことをご理解いただけたら幸いです。


最後まで、お読みいただきありがとうございました。

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