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ポルポト政権が生まれた背景

カンボジアの歴史を振り返ると、必ず虐殺の行われたポルポト時代に目が行くのですが、それを生み出した世界情勢を含めて解説をしたいと思います。

第二次世界大戦後のイデオロギー

まず、現代史において、第二次世界大戦後の利権争いから、米ソによる東西の冷戦が始まったことが発端です。

世界は、社会主義圏と自由主義圏とに二極化されました。

それにより、朝鮮半島やベトナム国内で、戦争が起こったのです。

朝鮮戦争もベトナム戦争も、大国が背後に存在する戦争であったことを抑えておく必要があります。

ソ連を端に発し、北朝鮮、中国、ベトナムと社会主義を推し進めようとするイデオロギーがドミノ現象のように南下してくるのを怖れたアメリカは、これを押しとどめようとします。

当時、フィリピンがアメリカの統治下にあったことを考えれば、これを食い止めようとするアメリカの立場が理解できるかと思います。

ソ連が支援する北ベトナム軍とアメリカが支援する南ベトナム軍が、熾烈な戦争を国民を巻き込んで、ベトナム国内で行っていたのです。

南ベトナムの中でも、アメリカの侵略に反対する人々が南ベトナム解放民族戦線(俗称ベトコン)を結成し、ゲリラ作戦によってこれに対抗しました。

アメリカ軍がこのベトコンのゲリラ作戦に手を焼き、数々の虐殺を行ったことは、証言者によって世界に知れ渡っています。

ホーチミンルート

さて、北ベトナム軍は戦争物資をベトコンに供給するために、ひそかにラオスやカンボジア国内に輸送ルートを作りました。

これが、ホーチミンルートと言われている道です。

ラオスとカンボジア国内を自転車によって、小型兵器や弾薬を送り続けました。

この他国の領内を通る物資の輸送を、当時、政権を握っていたシアヌークは、米ソどちらとも手をつなごうとする中立の立場から、黙認していました。

しかし、これは、当のアメリカにとって都合がいいことではありませんでした。

ロンノル将軍のクーデター

シアヌークが、この事態に収拾つけるための支援を受けるためにモスクワを訪問しているときに、アメリカは当時、シアヌーク政権下で軍の上層にいたロンノル将軍を利用してクーデターを起こしました。

こうして、アメリカを背後に付けたロンノル政権がカンボジアに誕生しました。

アメリカは、ロンノル政権と共にカンボジア国内を空爆することへの大義を作り上げたのです。

他国の領内であるホーチミンルートを空爆し、ロンノルの率いる軍隊に軍需物資を供給しました。

つまり、ベトナム戦争は、他国も攻撃対象にするという事態にまで拡大されていったのです。

アメリカのカンボジア爆撃により、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となりました。

落とされた爆弾の量は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が日本に落とした爆弾の量の3倍と言われています。

 

内戦の始まり

以降、アメリカの支援を受けたロンノル軍は、共産勢力である北ベトナム軍や反対勢力であるクメールルージュに攻撃を仕掛けるようになりました。

これに対して、シアヌークは、中国やソ連の支援を受けて、共産党勢力であったポルポト軍と手を組んで、カンプチア民族統一戦線としてロンノル政権に対抗しました。

国内には、1953年パリ和平協定で完全独立を実現させたシアヌークを支持する人々が多くいました。

またアメリカのカンボジア空爆によって国内に反米感情が高まっていたことから、ポルポトは、この両方を味方に付けて勢力を拡大していきました。

ポルポトは、国王を擁立しながらも、その実態は、実質的にはカンボジア共産党であり、クメールルージュ(赤いクメール)と言われていました。

ベトナム戦争は、1975年4月30日に北ベトナム軍によるサイゴン陥落で終結されたとされますが、アメリカ軍はその2年前に自軍をベトナムから撤退させています。

アメリカの援助を失ったロンノル軍は、カンプチア民族統一戦線に包囲され、次第に首都プノンペンに追い詰められていきます。

国民は、政権の崩壊はもはや時間の問題と思っていました。

プノンペン陥落

アメリカ撤退後、次第にロンノル軍に対抗する勢力が増す中、1975年4月17日、ポルポトが率いるカンプチア民族統一戦線が首都プノンペンに突入し、ロンノル政権はこの日を持って、完全に崩壊しました。

プノンペンの人々は、これで平和が取り戻せたと思い、彼らを歓迎しました。

北京に滞在していたシアヌークがプノンペンに戻り、王宮に戻ることになることを市民も喜んだのです。

しかし、ロンノル政権に関係していた人々を初め、その他多くの人々には、期待を裏切る出来事がこの後起こることになったのです。

続く

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