【忌まわしき虐殺の時代】ポルポト政権が生まれた背景

カンボジアの歴史

ロンノル将軍のクーデター

シアヌークがこの事態に収拾つけるためにモスクワを訪問しているとき、アメリカはカンボジア国防軍の上層にいたロンノル将軍を利用してクーデターを起こしました。

こうして、シアヌークが留守の間に、カンボジアにはアメリカを背後に付けたロンノル政権が誕生したのです。

ロンノル政権は、完全にアメリカの傀儡政権でした。

当時のアメリカにとっては、ベトナム戦争におけるカンボジア国内への空爆を正当化する必要があったのです。

これを利用して、カンボジア国内を空爆することへの大義を作り上げたのです。

大義を得たアメリカ軍は、隣国の領内であるホーチミンルートを引き続き空爆し、ロンノルの率いる軍隊には軍需物資を供給しました。

このようにして、ベトナム戦争は、他国をも巻き込んだ戦争にまで拡大されていったのです。

下は、アメリカ軍のB52戦略爆撃機です。何億トンもの爆弾をカンボジア領内に投下しました。

雨のように振り落とされる爆弾。

この爆弾の下には、平和に暮らしている人々がいます。

アメリカ軍のカンボジア爆撃により、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となりました。

ベトナム戦争終結までにカンボジア国内に落とされた爆弾は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が日本に落とした爆弾の3倍の量だと言われています。

カンボジア内戦の始まり

さて、話をカンボジア国内事情に戻します。

アメリカの支援を受けたロンノル軍は、共産勢力である北ベトナム軍や反対勢力であるクメールルージュに攻撃を仕掛けるようになりました。

これに対して、シアヌークは、中国やソ連の支援を受けて、共産党勢力であったポルポト軍と手を組んで、カンプチア民族統一戦線としてロンノル政権に対抗しました。

ポルポトは、国王を擁立しながらも、その実態は、実質的にはカンボジア共産党であり、彼の軍はクメールルージュ(赤いクメール)と呼ばれていました。

(元々、敵対勢力だった両者が手を組んだのは、中国の後押しがあったからだと言われています。)

実際に、カンボジア国内には、1953年パリ和平協定で完全独立を実現させたシアヌークを支持する人々が多くいました。

また、アメリカのカンボジア空爆によって国内に反米感情が高まっていたことから、ポルポトは、この両方を味方に付けることで勢力の拡大に成功したのです。

 

一方、アメリカでは、ベトナム戦争末期、国内で反戦論が高まり、これ以上ベトナムでの戦闘を続けることが困難になっていきます。

ベトナム戦争は、1975年4月30日に北ベトナム軍によるサイゴン陥落で終結されたとされますが、アメリカ軍はその2年前に自軍をベトナムから撤退させています。

同様に、カンボジアからも軍を撤退させていきます。

アメリカの支援を失ったロンノル軍は、シアヌークとポルポトのカンプチア民族統一戦線に包囲され、次第に首都プノンペンに追い詰められていきます。

ポルポトの軍隊は、中国の軍需物資の支援を受けながら、思想教育を受けた少年少女の兵士も含め、数万人の規模にまで拡大されていました。

プノンペンは、当時戦火を逃れて地方から逃げ込んできた一般市民やロンノル軍兵士たちで溢れかえっていました。

食糧もほとんどありませんでした。

当時を知る人が、夜には犬の遠吠えが聞こえなくなったと語っています。

これは、犬の肉さえ食べざるを得なかったという当時の食糧事情を表現しています。

アメリカ軍は、もはやこれまでとばかりに1975年4月1日に首都プノンペンから引き上げました。

ロンノル自身もアメリカへ亡命し、政権の崩壊はもはや時間の問題でした。

そして、プノンペンは1975年4月17日に陥落することになるのです。

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