1975年4月17日 人々は悪夢を見た
ポルポト軍が破竹の勢いで、首都プノンペンに迫ってきました。
アメリカ軍はすでに引き上げています。
もはやこれまでと観念したロンノル将軍は、政権を手放し、1975年4月1日ハワイへ逃亡しました。
プノンペンの人々は、アメリカに勝利したという喜びと共に、クメールルージュを迎え入れました。
誰もが、これで戦争のない平和なの世の中になると考えました。
そして、多くの人々が、シアヌークを中心にした以前の王政が戻ると期待したことでしょう。
ところが、ポルポト軍の行ったことは、それとは全く正反対のことだったのです。
形式的にはシアヌークを国家元首として、カンボジアに迎え入れたのですが、彼にはほとんど権限を与えられず、幽閉されてしまったのです。
実質的に政治的な権限を握ったのは、ポルポトでした。
中国の毛沢東の改革思想を学んだポルポトは、原始共産主義という思想に基づき、これまでの社会を真っ向から否定しました。
初めにポルポト軍は、旧ロンノル軍の兵士をすべて抹殺しました。
投降した兵士
隠れている兵士
ことごとく、処刑されました。
そして、兵士ばかりではなく、軍の政権に関わっていた人々を家族共々すべて連行し、殺害しました。
「草を刈るなら根っこまで」
これが、クメールルージュの思想です。
体制を維持する方策を学んだポルポトは、それを自国内で徹底して実行し始めたのです。
でも、そのために国民一人一人が大きな重荷を背負わされることになりました。
失ったものが家や財産だけなら、まだしも、かけがえのない命を虫けらのように殺されていった人々が続出することになるのです。
ポルポト政権の破壊活動
また、ポルポトの思想では、貨幣経済は不要でした。
資産家が国を堕落させていると考えていたポルポトは、その大元をコントロールする国立銀行を破壊しました。
貨幣を製造する必要はない、それを管理する必要もない。
この日から、カンボジアの貨幣は紙くずとなったのです。
町中の道路には、不要となった貨幣がばらまかれていました。
これまでお金を稼ぐために働き、資産を築き上げてきた人々を嘲り笑うように・・・・。
続いて、すべての政府の機関、裁判所、学校、病院、図書館、寺院などを封鎖しました。
それらの施設は、軍によって倉庫や兵士の宿舎に使用されました。
この3日間で、敵とみなされた人々はポルポト軍兵士たちに連行されていき、人々の目の届かないところで処刑されました。
公務員、教師、医師、僧侶、旧文化の毒された人々・・・、すべての知識人が対象でした。
隣国のベトナム人や少数民族のチャム人たちも同様です。
海外の記者を含め、滞在していた多くの外国人も連行されたまま戻ってはきませんでした。
危険を察知した人々は、国際的に治外権が認められる大使館の中に逃げ込もうとしました。
この光景は、映画「キリングフィールド」でも描かれていますね。
その後、彼らがどうなったかは知る由もありません。
そして、首都プノンペンに住んでいた多くの一般人は、農村へ移動させられました。
すべての老人、病人、子どもたちも含めて。
この時、これを拒んだ人々は、その場で射殺されたと言われています。
私が知人から直接聞いた話です。
このようにして、フランス統治時代に東洋の真珠といわれた首都プノンペンは、わずか3日でゴーストタウンになりました。
1975年4月17日、この日がポルポト政権下において、200~300万人の人々が虐殺された暗黒の歴史の始まり日なのです。
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