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ポルポト政権下の3年8カ月に起こったこと

1975年4月17日

プノンペンの人々は、シアヌークを首都に迎え入れたこととアメリカに勝利したという喜びと共に、クメールルージュを迎え入れました。

初めにポルポト軍が行ったことは、旧ロンノル軍の兵士を捉えることでした。

そして、兵士ばかりではなく、軍の政権下で政治に関わっていた人々を家族共々すべて捉え、殺害しました。

中国の毛沢東の改革思想を学んだポルポトは、原始共産主義という思想に基づき、これまでの社会を真っ向から否定したのです。

まず、国立銀行を爆破し、貨幣制度を崩壊させました。

この日から、カンボジアの貨幣は紙くずとなりました。

すべての政府の機関、裁判所、学校、病院、図書館、寺院などを封鎖しました。

関係する人々はすべて連行されて、処刑されました。

公務員、教師、医師、僧侶、旧文化の毒された人々・・・、そして、すべての知識人が対象でした。

隣国のベトナム人や外国人も同様です。

この時、海外の記者を含め、多くの外国人も連行されていきました。

国際的に治外権が認められる大使館の中に逃げ込んだ人もいましたが、その後どうなったかは知る由もありません。

そして、首都プノンペンに住んでいた多くの一般人は、農村へ移動させられました。

老人、病人、子ども、すべてです。

この時、これを拒んだ人々は、その場で射殺されたと言います。

こうして、東洋の真珠といわれた首都プノンペンは、わずか3日でゴーストタウンになりました。

これがポルポト政権下において、200万人の人々が虐殺された暗黒の歴史の始まりでした。

なぜ、ポルポトは、プノンペンに住む人々を農村へ追いやったのでしょうか。

それには、いくつか理由があります。

1.当時のプノンペンには、ポルポト軍の迫害から逃れてきた地方の人々がロンノル軍と共に流れ込んでいて、通常の2倍から3倍の人々に膨れ上がっていて食料もない状態でした。その証拠に、プノンペンの犬が消えたと言われています。つまり、食料にして食べられてしまったというわけです。また、ロンノル軍の兵士が、民間人に成りすましているかもしれないと疑心暗鬼にかられ、疑わしき人を次々と捉えていったのです。

2.旧文化の属された人々を農村での労働によって、再教育するためです。教育と言うと聞こえがいいようですが、実際にはオンカー(上の者と言う意味)の監視下に置かれ、抵抗したり文句を一言でもいったものは、直ちに処刑されたと言います。空腹に耐えきれなかった子供が監視の目を盗んで、バナナを口にしたのを見つかってその場で殺されたという話も生き残った人の証言からわかりました。

市場の中心地であったプサータマイ(セントラルマーケット)周辺も、無人になっています。

私の知人の母親は、プレイベン州のセントラルから、バッタンバンまで380kmを裸足で歩かされたと聞きました。

当時は、乾季の真っただ中で、しかも4月と言えば1年で最も暑い時期です。

途中で行き倒れる人が多く出ました。

人々が、行き着いた先は、農村地帯でした。

そこでは、旧住民と新住民に分けられ、都会からやってきた人々は新住民として、旧住民の配下に置かれました。

そして、農業用水の確保のために堤防や灌漑工事を強いられました。

人々は、1日14時間、たった2杯のおかゆを与えられただけで働き続けました。

個人が財産を持つことは許されない。

国民は全員農業に従事する。

生産されたものは国民に平等に配分される。

結婚も、オンカーの指示に従って強制的にさせられる。

家族も、教育も、宗教も、すべて体制に反するもの。

これが、ポルポトの目指す農業を主体とした原始共産主義の形だったというわけです。

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