【大量虐殺の責任は誰に】ポルポトの最後と幹部たちのその後

2023年12月12日

ポルポト政権が行ったことの詳細については、当ブログで最も読まれているこちらの記事をお読みください。

ポルポト政権崩壊後の複雑な歴史

1978年12月25日、ベトナム軍と反クメールルージュ軍であるカンボジア救国民族統一戦線がカンボジアに侵攻。

これにより、1979年1月7日にプノンペンが解放され、クメールルージュ軍は北部カンボジアに逃走しました。

この日で、1975年4月17日から続いた3年8か月という忌まわしき大虐殺の政権が、とうとう終焉を迎えたのです。

そして、ベトナム軍をバックにつけたヘンサムリン政権が誕生しました。

しかし、ポルポト率いるクメールルージュ軍は、タイ国境近くのコッコン州とバッタンバン州のジャングルの中に潜伏し続けました。

ここから、10年以上も続く内戦が始まることになるのです。

しかし、この新政権を支えていたのがベトナム戦争後に共産主義国家となったベトナムであったことから、アメリカ・ヨーロッパ諸国・中国がこの政権を認めず、クメールルージュらの3派連合を支援する立場を表明しました。

アメリカは、ベトナム戦争から撤退したばかりで、ホーチミン政権による共産主義が隣国のカンボジアにまで浸透することが受け入れられなかったからです。

国連の場で、ヘンサムリン政権がベトナム軍による傀儡政権であると主張し、多くの国の支持を取り付けました。

ご存じの通り、国連は、196か国が加盟する国際組織ですが、拒否権を有する5つの常任理事国の意向によって運営されるものですから、その決議は、大国の意向で決まります。

また、このとき、隣国タイもベトナムの進出を脅威に感じ、クメールルージュを支持する立場を取りました。

本来なら大虐殺に対する断罪を受けるべきポルポト率いるクメールルージュが、奇しくも国際的に保護されるということになっていきました。

これが、カンボジアの内戦が長引くことになった理由なのです。

新政府の要職に就いていたカンボジア救国民族統一戦線の兵士たちは、ほぼ元ポルポト軍に属しており、ちなみに現フンセン首相もベトナムと国境を接する地方を統括する要職に就いていました。

こうして、クメールルージュを離反してベトナムを味方につけたヘンサムリン政権とそれに反対するポルポト軍ら3派連合との抗争が1990年後半まで続くことになりました。

これが、ポルポト政権後の内戦の始まりです。

実際には、その背後には、大国の存在がありました。

ベトナム・ソ連の支援を受けて、国家を統制しようとする政府軍

中国・タイの支援を受けて、反抗するクメールルージュ軍

中国は、この時に中越の国境やメコンデルタでの利権争いで、ベトナムとの関係が最悪な状態にありました。

ソ連は直接的には介入することはなく、ベトナム戦争時から継続して軍事支援を行うにとどめました。

この内戦は1996年まで続き、政府がポルポト軍指導部のためにパイリンという場所を提供するという譲歩によって終結を見ました。

クメールルージュの兵士たちは、投降すれば罪を問わないという政府の恩赦もあり、次々と離反していきました。もはや統制の取れない状態になっていたと言われてます。

地図を確認していただくとわかりますが、バッタンバン州のタイとの国境に当たる西側の一角にパイリン特別区と記されています。(下地図の枠で囲まれた部分)

このパイリン地区は、クメールルージュの元兵士たちが現在も居住しており、ルビーなどの宝石が採掘できる場所として有名です。

クメールルージュ政権時代の副首相であったイエン・サリがここで実権を握り、映画「地獄の黙示録」さながらの帝国を築いていたというのは、あまり知られていない話でしょう。

このイエンサリも、パイリン地区での資本主義的な統治が理由でクメールルージュと離反することになります。

政権軍司令官に説得され、1996年8月8日、3千人の兵士たちと共に投降し、プノンペンに移送されました。

この事実は、クメールルージュにとっては大きな痛手でした。

クメールルージュのその後

ポルポトの元兵士たちは、決まって言います。

「命令に従っただけだ。」

「やらなければ、自分が殺されていた。」

 

そう、戦いが終われば、元兵士たちも普通の人間だった。

カンボジアの深い闇はここにあります。

カンボジアは、未だに、

被害者と加害者が共存する国

なんです。

ポルポト派のリーダーたちは、国際軍事法廷にて裁かれ、終身刑の判決を受けました。裁きを受ける前に病死した幹部もいます。

 

彼らの有罪判決を喜ぶ、トゥールスレン収容所の生き証人のチュンメイさん。

トゥールスレン博物館に行けば、彼にお会いすることができます。

ポルポトと幹部たちの最後

ポルポト(本名サルト・サル)も、タイ国境に近いアンロンベンと言うカンボジア北部の町で余生を過ごしていました。

歩くこともおぼつかない一人の老人に、虐殺の意識は全くないように見えます。

穏やかな表情を見せます。その辺にいるおじいちゃんに見えるのですが、かつては原始共産主義なる思想で国を統率しようとしたリーダーであり、大虐殺の最高責任者である事実は変わりません。

この人物の存在、思想、行動が、200万人以上もの人々の無残な死を生み出したと考えると何とも言えない気持ちになります。

クメールルージュでは、最後の実力者と言われていたタモック。(2006年7月21日プノンペン市内の病院にて死亡)

陰ではブッチャー(豚殺者)呼ばれ、大量虐殺の指令を直接出したと言われている人物です。

現在のアンロンベンの街。

そこに、彼の住居であったタモックハウスが公開されています。

彼も内部抗争の渦中にあった人物で、イエンサリが離反したことの責任を問われ、アンロンベンで軟禁状態に置かれていました。

しかし、ソンセンの暗殺後に蜂起したタモックの部下により、ポルポトは幽閉されます。

ポルポトの死

ポルポトは、1998年4月15日、カンボジア北部の町アンロンベンで死去しています。

私は、2022年11月にこの地を訪れました。

アンロンベンから、北へ13㎞ほど。

バイクの2速でも登っていけないほどの、急こう配の坂道を登っていきます。

チョアムというタイとの国境沿いの山岳地。

チョアムにある小さな国境。

タイとの国境Choamという村にあるポルポトの隠れ家(跡)を見に行きました。

ここは、国境の山岳地帯だけにかなりの高台となっています。

現在は、跡地となっているだけのかつての住処。

タ・モクにアンロンベンを防衛させ、自身は高台に身を隠すところに、したたかさを感じ得ません。

彼の部下ソン・センの住処もここにありました。

そして、その近くにあるポルポトの火葬の地。

政府軍兵士に連行されるポルポト。

病死とも毒殺ともいわれていますが、真相は不明のままです。

晩年は、クメールルージュ内でも派閥闘争が起こり、実権を握っていたタモクによって毒殺されたというのが大筋の見方です。

1999年3月6日にタモックは、タイ国境近くの村でカンボジア軍によって逮捕され、プノンペンに連行されました。

タモックは最後に残されたクメール・ルージュの有力指導者でした。これにより、クメールルージュの権力者はほとんど表舞台から姿を消すこととなりました。

さて、ポルポト自身が死の間際にジェノサイドに対する罪に対して、釈明の弁として以下のように答えています。

「一般の人々を暗殺するために戦いに加わったのではない。」

「私の心の中には、いつも平穏な心がある。」

これをどのように捉えるかは、皆さんにお任せします。

私は、原子共産主義という高き理想のために170万人もの人々を死に追いやった一人の人間の姿から、後世に伝えるべき何かがあると思っています。

【日本語字幕】「ポル・ポト 最後のインタビューと死」を動画でご覧ください。

下は、ポルポトが亡くなり、火葬されたという貴重なニュース映像です。

ポルポトが火葬された場所には、時々観光客が訪れます。

私は、ここを自分の目で見たことによって、心の中にわだかまっていたものが解決したような気がしました。

さびたトタン屋根が、雨ざらしのまま長い期間放置されていることを示しています。

日本にも戦争にまつわる史跡はありますが、これほどまでに平和の大切さを語り掛ける場所があるだろうかと思います。

そして決して消えることのない人道上の罪。

死して、ぬぐいきれるものではありません。

ここに、あの忌まわしき時代の真実を探るためにカンボジアの人々が訪問します。

クメールルージュによって両親を殺された人。
強制労働を課せられた人。
拷問を受け続けた人。

手も合わせず、墓をじっと見つめます。

きっと、言葉にならない感情が心の中を渦巻いているのでしょう。

ポルポトの時代が確かに終わったことを自身の目で見て、殺戮を繰り返した時代への戒めと平和の大切さを改めて感じて帰るのかもしれません。

2021年現在、他の主要な幹部たちも、既に多くが死んでいます。

上段左から、イエンサリ、イエンチリト、ヌオンチア。 下段左から、キューサムファン、カンケイウ。

元副首相 

イエン・サリ (2013年3月14日 87歳没)

クメールルージュ内部では第3の地位にあったと言われ、多くの虐殺に対して指揮を執る立場にありました。パイリンの豪邸で優雅な暮らしをしていたと言われています。

 

サリの妻 元社会問題相 

イエン・チリト2015年8月22日 83歳没)

チリトは、長らく認知症を患っていて、自宅で静養中に亡くなりました。

 

人民代表議会議長でNO.2の地位 

ヌオン・チア(2019年8月4日 93歳没)

昨年、プノンペン市内の病院にて亡くなっています。国際裁判では、非人道的な行いについては認めましたが、自分には実権がなかったとして、無実を主張し続けました。

 

元国家元首 

キュー・サムファン(現在 89歳 終身刑)

大量虐殺の存在は認めましたが、自身の罪に対しては否認し続けています。

 

元S21所長 

カン・ケ・イウ(2020年9月2日 77歳没)

悪名高いトゥールスレン収容所の元所長。長年身を隠していましたが、タイ国境近い森の中で、難民救済活動に従事していたところを発見、逮捕されています。通称ドッジと呼ばれている。2020年9月2日クメールソビエト病院にて病死。

でも、幹部たちがあの世に行ったところで、親兄弟を亡くして生き延びた人々の悲しみと憎しみが消え去ることはありません。

カンボジアが未来に向かってすすむためには

フンセン首相は、

「昔のことは忘れるべきだ。」

と言います。

憎しみを容認すれば、暴動が起こることが目に見えているからです。

そこには、国家が混乱することは二度と起こしてはならないという政治理念があります。

事実、上の幹部の一人キュー・サムファンは、1991年バンコクから帰国したところを、ポルポト時代の虐殺への怒りをたぎらせた群衆たちに袋だたきにされています。

カンボジアの人々は、普段は表には出しませんが、心の中では決して忘れてはいません。

クメール人にとって、家族は最も大切なもの。

その家族を殺された人々の心が、癒される日が来るのかどうかは疑問です。

クメールルージュの兵士たちは、多くが少年少女でした。

彼らは、一生その罪を背負いながら、今もなお生き続けています。

これも、不幸なことです。

真実を伝えることの大切さ

私も、ポンナレット久郷さん、家族を亡くされた多くの人々の生の声を聞いた経験から、そのことを良く理解しています。

1975年ポンナレットさんは、クメールルージュに父を殺され、母と兄弟姉妹と共にプノンペンからコンポントムへ徒歩で移動させられました。

そこで過ごした地獄のような強制労働の日々。

タイの難民キャンプは餓死寸前の人々で溢れかえっていた

おかゆと言えば、皆さんは白米がたっぷり入ったものを想像すると思いますが、クメールルージュが労働者に与えていたのは、10リットルの水に缶1杯の米を入れただけの水がゆ。しかも、1日に2回のみ。

虐殺だけでも、170万人。病気や栄養失調が原因で亡くなった人を含めれば、この数字以上の方が亡くなっていると言われます。

沈黙を守り通し、重労働に耐え、命からがら逃げ切った人々は、タイの難民キャンプで保護されました。

難民キャンプの人々は、心も体も傷ついていました。

その中の一人に、当時6歳だったポンナレットさんがいました。

ここで、国際支援団体保護の元、1年ほど過ごしたそうです。

ポンナレットさんが人生を懸けて取り組もうとしていること

彼女は、お姉さんのセタリンさんが留学生として日本に来ていたことから、難民として来日することになります。

16歳で日本の小学校で学び、幾多の努力の結果、日本語で不自由なく読み書きができるようになりました。

その彼女が、激動の人生を書き綴った著書がこちらです。

涙なしには、読めません。

「虹色の空」<カンボジア虐殺>を越えて 1975-2009

 著者 久郷ポンナレット   春秋社 2009年5月30日発行

第1部 色のない空 カンボジア 1975-1980
輝いた日//惨劇の始まり/故郷を奪われて
トノート村/深まる闇/絶望の淵に
生きている/地雷原を越えれば

第2部 同じ空の下で 日本 1980-2004
希望の星/二つの世界/差別と絆
新しい家/はじめての帰郷/生きるための言葉

第3部 祈りの旅へ カンボジア/日本 2004-2009
夢に導かれて/地獄の門を抜けて/クメールの微笑
母との約束

尾木ママ推薦! 1970年代、カンボジア。10歳の少女が体験した戦争。
著者が体験した悲劇のあまりの凄惨さに言葉を失う。
過酷な環境を生き抜いた彼女が、今この国で命をつなぎ、共に生きているということ。
その平和を守れるのはほかでもない私たち自身であることを忘れてはならない。

教育評論家 尾木直樹

誰も知り得ないポルポト時代に起こった真実がこの本で明らかにされています。

平和に対する彼女の想いに胸を打たれます。

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ジャーナリストでもない私が、この国の出来事にここまで関心を持って書き綴るのは、支援の原点がここにあるという理由から。

そして、一人でも多くの人に、カンボジアで起きた歴史の真実を伝えるため。

この暗黒の時代に失われた教育を取り戻すために、私はここに留まっています。

*この記事は、以前に書いた「バッタンバンのキリングフィールドで涙する」の記事から抜き出して再構成したものです。


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