世界遺産サンボープレイクック遺跡とアツ小中学校

カンボジアの歴史

コンポントムに到着

プノンペンから、国道6号線を北に向かって260kmほどバイクを走らせ、Kampong Thom(コンポントム)に来ています。

6号線は、きれいに舗装されているとてもいい道で、それだけスピードを出して走る車が多いため、自分も飛ばせるのですが、特に対向車の追い越し車両には気を付ける必要があります。

プノンペンとシェムリアップ間のちょうど中間地点になります。

この街で一泊し、翌朝、30kmほど離れた世界遺産サンボ―プレイクック遺跡群に向かいました。

サンボープレイクック遺跡群とは

サンボープレイクックは、2017年にユネスコの世界文化遺産に登録されたばかりの場所です。

カンボジアでは、アンコール遺跡群、ブレアヴィヒアに続く3番目の世界遺産になります。

ここは、7世紀の初め、アンコール王朝時代の首都に建造され、プラサット・サンボー、プラサット・タオ、プラサット、イエイ・ポアンという3つの遺跡群を中心に、その周囲に散在する150を超える遺跡をさします。

日本でいえば、聖徳太子が法隆寺を建立した時代。

その古さが、歴史的な価値の高さを示しています。

八角形の大きな詞堂、空中宮殿と呼ばれる彫刻が有名です。

この看板が見えたところを右折します。

あとはずっと田舎道が続きます。

あたり一面が、ラテライトです。

この焼けた赤土の色は、カンボジアにいることを実感させます。

中田さんの魂が眠るアツ小中学校

実は、ここへ行く途中、我々日本人が決して忘れてはならない事件のあった場所を通ります。

国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)のボランティアの一員として活動した中田厚仁さん(享年25歳)が亡くなった場所がここにあります。

中田さんは、1968年生まれ、幼いころをポーランドで過ごし、アウシュビッツの歴史を見てきたこともあり、戦争のない平和な社会への思いは人一倍強いものを持たれていたようです。

こちらに派遣される前に、お母さんから、

「なにもお前がやらなくてもいいんじゃないの。」

と言われた時、

『でも僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕はその誰かになりたい。』

と言って、自分の意志を貫き、当時ポルポト軍と政府軍の内戦状態下にあったカンボジアに選挙管理委員として、この地にやってきました。

ここは、選挙に反対するポルポト派の勢力が強かった地で、彼はあえてこの地を希望して来たと言います。

なぜ、人々が選挙への関心が薄かったか存じ上げない方に説明しますと、・・・。

ポルポト政権は、原始共産主義と言われる思想を持っていました。

その政権下で、知識人は、根こそぎ命を奪われていきました。

頭のいい人たちやものを考える人たちは、政敵とみなされたのです。

人々は、自ら考えることや語ることを一切放棄することを余儀なくされました。

それをすることは、死を意味することだったからです。

人々が生きるために身につけた習慣は、ずっと残るものです。

選挙と言うものは、自らの意思を表現すること。

そう考えると、当時の人々が、選挙に参加することに抵抗があった背景が理解できます。

 

中田さんは、精力的に村を回り、そんな人々に熱く語り続けたと言います。

「これは、あなたたちの選挙です。国の政治をどうやって決めますか。互いに戦い、撃ち合って、殺し合って決めますか。」

 

中田さんは、1993年、選挙実施を目前にしたある日、敵に3発の銃弾を撃ち込まれ、倒れてしまいました。

彼が亡くなった場所がここです。

今では、ここに学校が建っています。

中田さんが亡くなった後、彼のお父さんが息子の遺志を受け継ぎ国連親善大使となり、世界中で平和を訴える講演を行いました。

この村が洪水になったときに、お父さんは各所から基金を募り、この村に寄付することを申し出たそうです。

すると、村長は、「ありがたいことですが、このお金は我々の飲み食いのためには受け取れません。ここに、ぜひ学校を建ててください。」と返答したのだそうです。

お父さんも、村長さんも、共に徳の高い方です。

こんな背景を持って、ここに学校が建てられ、ここの子どもたちが学び続けています。

私は、この学校の前に立ち、一人の青年の魂に強く感じ入っていました。

今でこそ、平和なこの道も、当時は銃弾が飛び交う戦場だった。

彼がどんな思いでこの地に来たのか。

どのように人々に選挙の大切さを語りかけていたのか。

静かに彼の志に敬意を表し、祈りをささげました。

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